黄皓は、何時頃に蜀漢に仕えたか

黄皓は、何時から蜀漢に仕えていたのであろうか。正史・三国志「蜀書」を見てみると、郤正伝に「郤正は、黄皓と屋敷を並べて立ち働く事30年にわたった」と記載されている。

この事から、黄皓は30年は蜀漢に仕えていた事がわかる。で、30年間は何年から何年までなのであろうか。蜀漢が滅ぶのが、景耀6年(263)である。ここを30年間の下限とすると、仕えたのが建興11年(233)と考えられる。

しかし、それだと蜀漢が滅ぶまで屋敷を並べと記載されると想像できるので、建興11年以前から仕えていたのではないかと考えている。

そこで、まず宦官の役割を考えてみよう。宦官は皇帝や皇太子の身の回りの世話や後宮での仕事をしている。そのために存在している。劉備は益州に落ち着くまで、ほぼ放浪状態のため、その状態で宦官を養う余裕もなかったはずである。

蜀漢が、国として体制が整うのは、劉備が漢中王〜皇帝即位の辺りと考えられる。そこから宦官を雇い出したのではなかろうか。

一番可能性が高いのは、劉備が皇帝即位。劉禅が皇太子となった章武元年(221)時に宦官の採用を初めて、その宦官達の中に黄皓もいたのでなかろうかと考えている。

また黄皓の年齢について、彼は何歳であったのだろうか。皇太子の世話と考えると、劉禅の同年代か、2〜3歳年上だったのではないかと、私は考えている。



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