日羅将軍神社

日羅将軍神社

創建:不明。弘化2年(1845)以前か?

祭神:日羅

由来:詳細不明だが、里人の夢枕に示された場所と伝わる

日羅神社は、七浦オレンジロード沿いにある。県道56号線からも行けるが途中で道が狭い場所があり注意が必要だ。

さて日羅とは、敏達天皇の要請により、任那を復興させるために百済から呼び寄せた人物である。

元々は倭人で、宣化天皇2年(537)、10月1日に新羅が任那に害を加えるので、大村狭手彦(さてひこ)を彼の地へ遣わし任那を救ったという。この時、狭手彦と一緒に派遣されたのが、日羅の父である阿利斯登(ありしと)。

その後、阿利斯登は、彼の地へ残り、百済に仕えたらしい(検証が必要だが)。息子である日羅も百済仕えて、達率という高い官位(百済では二品官)を与えられていた。功績があって出世したのか、他の理由かは不明であるが。

欽明天皇23年(562)1月の任那滅亡(ある本に21年とも)後、天皇は、任那回復を図っていたが、32年(571)に欽明天皇崩御。

あとを継いだ敏達天皇12年(583)は、任那復興のため、天皇の要請により日羅を百済より呼び戻したという。(10月頃?)


日羅は、敏達天皇に対し、次のように献策している。

「富国強兵に3年努め国力をつけ、その力を百済の使人に見せつ、天皇の命に服する気持ちを生じさせること。その後、優秀な人物を派遣し、王、もしくは王子等は来朝させ、任那復興に協力的でない罪を問う事。」

「百済人の謀略に対し、騙されたふりをし、それを逆手にとって船団等を壊滅させる事。要所には城塞を築く事」

さて、日羅と同行してきた百済人である恩卒・参官ら(官位?)は、倭に対して献策する日羅が、百済を裏切っていると考えて、徳爾・余奴ら(名前?)に語って日羅殺害を命じて、高い恩賞を約束したという。

恩卒・参官らが筑紫を離れた頃、徳爾・余奴らは日羅を殺害しよう日々狙っていたが、体から炎のようは光出ているため恐れて殺せなかった。しかし、12月晦日に光が無くなったので殺害した。(何故、光る?。後述するが別の逸話でも光っている)

殺害後、徳爾・余奴らは捕縛され、恩卒・参官らに命じられたと白状し、天皇は、日羅の一族を肥後芦北(※)より呼び寄せ、徳爾・余奴らの罪を償わせた。一族は徳爾・余奴らを受け取り後殺害して、弥亮島(みめしま)に捨てたという(何処の島?)。


恩卒の船は強風のため海に没し、参官の船は対馬に漂って百済に帰る事が出来なかったと伝わる。(参官が、その後どうなったかは不明)


日羅は、最初が石川百済村に葬られたが、その後芦北に移し葬られた。現在、墓は熊本県八代市坂本町百済来にある。

  • ※日羅の父、阿利斯登は芦北国造。芦北に一族がいる。古代芦北は、現在の八代及び芦北にあたる。


また、日羅には次のような話も伝わる。


日羅は、政庁に向かうため鎧を着込み馬に乗って進んでいると、沿道にいる下仕えの少年達の中に、下仕えとは思えない子を見かけ声をかけた。

その子は驚いて逃げようとするとき、日羅は突如跪いて挙を合わせ「敬礼救観世音。伝灯東方粟散王」(謹んで、救世観音菩薩を礼拝し、東方の粟粒が散った小国の王に仏法を伝えます)と言う間に、日羅は身が光輝き、その子は眉間より光を放ち、日羅は百済より弥勒の石像を渡し奉じたという。

この逸話は、今昔物語にある。因みに、その眉の間より光を放った子は聖徳太子のことである。聖徳太子が眉間が光るのは、眉間には仏身には白毫があることから、太子が救世菩薩の化身であることを示すのと事。(日羅の身が光るのは何故か分からない)

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