中山靖王・劉勝について

中山靖王・劉勝(以下、中山靖王勝)

父:景帝

母:買婦人

生没年:?〜元鼎(げんてい)4年(BC113)2月

中山靖王勝、武帝の異母兄である。同母兄に敬粛王彭祖(ほうそ)がいる。

中山靖王勝は、酒を楽しみ、妻妾に耽り、子が百二十余人あった。生まれた年は分かっていないが、景帝の前3年(BC154)に王に封じられ、元鼎4年2月で薨じている。

王の在位41年(50歳前後で亡くなったか?)。その後、子が代々継承していくが、王莽の時に絶えたと伝わる。

王に封じられたのが、呉楚七国(BC153)の乱後でもあり、大臣達が、諸侯王の国を除く(諸侯の力を削ぐため)として、過失や悪事を奉上する事が多く中前靖王勝は、このままでは自らが侵されると不安の日々を送っていた。

それは、他の諸侯王も同様な思いであり、罪が無いのに、諸侯王の臣下を屈服させて、君主の罪を立証させる事もあったことから、建元3年(BC138)、諸侯王共に参加した宴席にて、武帝に心情を涙ながらに訴えている。

「我らは兄弟、宗室であるのに、何故此処まで排斥されるのか」とそれを聞いた武帝は、同情し諸侯王にへの圧力を手控えさせ恩愛を加えたという。


同母兄であえる彭祖とは兄弟仲が悪かったらしく、お互いに悪口を言い合ったという。


中山靖王勝「兄は王であるのに、もっぱら役人に代わって仕事をしている。王者たるものは、日々音楽を聴き歌舞華麗を事としておるべきである」


敬粛王彭祖「中山王は、ただ奢侈淫楽にふけるだけで、天子を助け百姓を手懐けようとしないが、それがどうして幕臣と言えようか」


この発言から、彭祖が立派な人物だったかというと、そうでもなく史記や漢書では、奸佞で人には低くへつらい恭しそうだが、心は残忍。法律を好み、詭弁を弄して人を陥れた人物であったとある。彭祖については、後日述べよう。


尚、漢書によると、元鼎5年(BC112)、中山靖王勝の子、陸城候貞。酎祭の献上金不足のかどで候位を失うとある。陸城候貞とは、劉備の先祖と言われている。¥

  • 酒祭とは、元旦に作り初めて8月にできる醇酒。これを宗廟にささげる祭祀。諸侯は、金を献上して、祭祀を助ける事になっていた。量目不足や、品質不良のかどで、武帝時代に大量処分があったらしい。(諸侯の力を削ぐためだと推測されるが)

  • 何故に中山靖王勝は、有楽に耽ったのであろうか。考えられるのが、先程も書いた朝廷が些細なことで、諸侯の力を削ぐことをしているため、無害である事を見せるためにやっていたのではなころうか。まあ、好きでやっていたこともあるであろうが。
  • 尚、景帝の子は14人いるのだが、結構ブラックな性格な者が多いが、中山靖王勝はまともな方である。
  • 劉備が生まれたのが西暦でいうと161年。中山靖王勝の死後、約270年近く離れている。王には、子供が百二十余人いたそうだから、その子孫は沢山いた事になるけどね。
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