劉備の先祖(臨邑候・劉譲)

中山靖王勝の末裔が有名であるが、別の説もある。
「典略」にいう。元来、劉備の先祖は臨邑(りんゆう)候のわかれである。という記録である。


この「典略」とは、「典略八十九巻、魚豢(ぎょかん)選」と隋志にあり、魏略の典略の一部らしい。魏の史書で紀伝体。内容が雑多とか、筆力があるとの評価があるそうだ。


臨邑候は、後漢書を調べてみると候補は2人いる。そのひとりである劉譲(りゅうじょう)について述べる。


時は、後漢の初期、光武帝である劉秀が皇帝に即位した頃の話である。建安2年(26年)、景帝の七世の孫であった真定王・劉楊が反旗。劉楊は劉譲の兄。弟である彼は同じように反旗に加わった。


劉楊は、讖記(しんき)をでっち上げた。讖記とは預言書の事で、この当時、預言書が流行ったのである。


讖記(しんき)「赤九の後、癭(えい)楊主と為る」


赤九とは、漢は火徳。故に赤。光武帝は高祖の九代の孫。故に九。その意味は、「劉秀の跡、皇帝となるのは癭(こぶ)がある楊である」劉楊は、首筋に出来た癭(こぶ)を見せ、自ら皇帝となろうとしたのある。


さて、劉譲の兄である劉楊とは、どのような人物か。


景帝の子である憲王瞬の末裔で、漢書の諸侯王表によると、綏和2年(BC7)に真定王を継ぎ、王莽が建国した新の建国元年(9年)公に降格。これは、天に2つの太陽なく地に二王がないのは当然である。天下統一にもとるので、王を公とするという献策によるものである。


翌年(10年)公も廃止され庶民となったようであるが、誰も命令に違反する者がいなかったようである。


その後、後漢書によると、赤眉の乱勃発後、新に反旗をし、劉楊は、衆を十数万の軍勢を集め、劉秀に遣わされた劉植(字:伯先)に説かれて配下になったという。


そして劉秀は、劉楊の姪である郭后を娶り同盟を強化している。そして、劉楊は諸将と共に、宴席を設け、劉楊は筑で楽器を弾いて楽しんだという。その後、兵を進めて河北を平らだという。


その後、真定王に任じられたが、劉楊は、何故か皇帝になることを望み反旗。先にあげた讖記を用いて、世論に訴えて、弟である臨邑候・劉譲のそれに従ったようである。

劉秀は反旗に驚いたが、騎都尉・陳副と遊撃将軍・鄧隆を派遣するも劉楊は、城門と閉ざして無視。劉秀は、改めて耿純を遣わす。劉楊は、最初は病を称して会わなかったが、耿純は甥であったため、会う事にする。


劉秀は「劉楊が、もし会うのであれば、これを捕らえろ」と命じていたという。


劉楊は「使いを奉じて王侯、牧守に見え、先に詣ることを得ず、如し面会せんと欲せば、宜しく伝舎にて出ずべき」と発言。「王侯や州の長官に面会を申し出るなら、先に詣でるのでなく、伝舎にて会うべきである」(ざっくり意訳)。

耿純は、それに同意し伝舎で会う事にする。劉楊兄弟は軽兵を率いて門の外にいたり、劉楊らは耿純にまみえ警戒していたが、耿純は礼節を持って、下手に出て劉楊達を安心させ、兄弟を伝舎の門の中に入れ門を閉じ、そして歓談し安心させたところで、そのスキを突いて尽く誅殺したという。これで反乱は平定されたという。

劉秀は哀れみ、其の子である徳を封じて、真定王とし故国を復したという。


  • これが、劉備の先祖とされる臨邑候であるが、主体的に動いたわけでもなく兄と一緒に行動したにすぎず、また後漢の光武帝に反旗をした人物であるから、この人物は候補とするのは、違う可能性が高い。もう1人の臨邑候の方が可能性が高いと思われる。また、兄である劉楊が、姪が皇后にもなって立場的には安泰なのに、皇帝になろうとしたのはよくわからない。
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