敬粛王彭祖

敬粛王彭祖

父:景帝

母:賈夫人

生没年:不明〜征和元年(BC92)

中山靖王勝の同母兄。生まれた年は不明だが、征和元年(BC92)に薨じている。王の在任中、60年余りという記述もあるため、遅くても、景帝の前二年(BC155)には生まれているであろう。


その人柄は、奸佞で、人には身を低くして諂っているが、心は残忍、法律を好み、詭弁を弄して人を陥れる人物とされ、酷い性格をしていたようだ。


因みに、景帝の子は14人いるのだが、多くがブラックな性格をしている。敬粛王彭祖は、これでもマシな方である。


景帝の前二年(BC155)に広川王となり。その後、超王(以下、超王)となる。敬粛王は諡である。

超王は、宰相等が赴任にくると、身を低くして対応し、色々疑わしい事件を捏造し、彼らを混乱させ、宰相等が失言等をして朝廷の忌諱に触れる事があれば、書簡にしたためておいた。

これは、相手の弱みを握る為であった。宰相等が、超王の罪を正そうとすると、その書簡をもって脅迫、聴かなければ、奉って告訴。あるいは奸吏を貪ったとい言って罪に陥れたという。


これを繰り返すことで、超王が立って60年余り宰相、宰相等(二千石)で2年在任できた者はいなかったという。超王は権をほしいままにした。


役人を各県にやり、商人から仲介料を取り、利益を独占。その収入は国の租税より多かったという。まさに悪代官みたいな事をしているのであった。その金は、湯水のように妾や諸子が使ったという。まさに悪人の鏡である(褒めてはいないが)。

子の丹が、妹や同母の姉と姦通(子もやりたい放題である)。江充が丹の淫乱を告発すると、さすがの武帝も激怒し、丹を捕縛。最初は死刑にするつもりだったが、超王が丹の無実を訴え(罪を認めないという基本コースである)、また匈奴を討伐願い出る。

何故か、これで武帝は死罪を免じ、丹は後に釈放される。しかし。匈奴討伐は許さなかった。丹を太子に立てることを求めたが、これは許されなかった。征和元年に薨ずる。武始候昌が継ぐ。

考察

景帝の子。14人いるのだが、ブラック性格が多く。彭祖もその独りである。

中山靖王勝に「兄は王であるのに、もっぱら役人に代わって仕事をしている。王者たるものは、日々音楽を聴き歌舞華麗を事としておるべきである」と言われているが、実際は法を使って相手を陥れ、暴利を貪っていた時代劇に出てくる悪代官典型である。

先の副将軍もいなかったため(いるわけない)、退治もされずに60年以上も王として君臨していた。領民は溜まったものじゃなかったであろう。

しかし、諡の敬粛って、粛敬を反対にしてるから皮肉だよね。

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