張角 第1回

後漢書より「中平元年(184)春2月、鉅鹿(きょろく)の人張角自ら黄天と称して、其の部帥(ぶすい)は三十六万有って、皆な黄巾を付けて、同日に叛乱す。」
これが黄巾の乱の勃発の記載である。


さて、黄巾の乱の中心人物であった張角は、どんな人であったのだろうか。三国志演義では、挙人(きょじん)の試験に落ちた秀才となっているが、後漢時代には挙人の制度はないため、試験に落ちた秀才なりえません。


ただ、この秀才という辺りは、あながち間違いはないでしょうか。後漢書を読み進みますと、中平元年に「3月〜(略)〜壬子(じんし)7日、大いに天下の党人を赦し、諸々の徒(と)せし者を還すも、唯だ張角のみ赦さず」


※注によると、時に中常侍:呂彊(ろきょう)が帝に言いて曰く「党錮久しく積(つ)み、もし黄巾と合謀すれば、これを悔(く)ゆるとも救い無しと。」帝懼(おそ)れ、皆な之を赦すとあり。このことから、過去に党錮の禁になった人物であった事がわかります。


党錮の禁とは、清流と濁流、清流人士と宦官の争いであり、党錮とは官僚としての採用を禁じるという意味です。張角は、その党錮の禁に巻き込まれ、官僚としての前途と立たれた人物だったのでしょう。


当時の清流人士は、士大夫とも言われ、土地それぞれの豪族の子弟でもあり、ある程度は力を持った人物達であったのです。張角は、鉅鹿にいた豪族の子弟だったと考えられます。


自分の地へ帰った張角は、そこで人々を集めて、宗教を起こすのです。それが太平道。その元になった書物が「大平清領書」。于吉が著したと言われています。


于吉は、朝廷に献上するも、顧みられなかったと言われています。張角は、官僚の頃に、この書物を見て、自らの力としたのではないですしょうか。


「大平清領書」によると「天、陰陽を失えば、則ち其の道を乱し、地、陰陽を失えば則ち、其の財を乱し、人、陰陽を失えば則ち其の後を絶ち、君臣、陰陽を失えば則ち其の道理おさまらず、四時(しじ)、陰陽を失えば則ち災と為る。今、天は象を垂れて人の法と為す。もとよりまさに之に承順(しょうじゅん)すべきなり」とあったそうです。


また、次のようにもあったと言われています。「天下に常になる神聖の要語有って、時に下りて人に授(さず)くるに言を以(もって)して、用いて神吏(しんり)をして気に応じて往来せしむるなり。人衆は之を得て神呪(しんじゅ)と謂うなり。呪すること百にしてあたること百、十にしてあたること十、その呪に神をして為に災疾を除かしむ可きもの有って、之を用うれば向こう所いれざるは無きなり」


これが、後の黄巾の乱へと流れていく元となっていったと想像します。

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