劉備の先祖って誰?

景帝の子、中山靖王劉勝の後裔。劉勝は120人以上の子がいたらしいのだが。


(蜀書)劉貞は、元狩6年(BC117)、涿郡の陸城亭候に封じられたが、酎祭の献上金不足のかどで候位を失う

(漢書)陸城候・劉貞、中山靖王の子。元朔2年(BC127)封じる、在位15年。元鼎5年(BC112)酎祭の献上金不足のかどで候位を失う

蜀書と漢書に若干のズレと、候名に違いが見られる。蜀書の方が間違いらしい。漢書にある王子候表が正確らしい。

蜀書本伝を信じるなら、どちらにしても、劉備は劉勝〜劉貞の子孫となる。


別の説もある。

(蜀書)典略にいう。劉備は元来臨邑候のわかれである。


この臨邑候とは、誰であろうか。この場合、劉勝系統とはならないのだが。後漢書によると候補は2名。劉譲と劉復の事であろう。

劉譲

略記建武2年1月 真定王・劉楊、臨邑候・劉譲、衆を率いて反旗。前将軍・耿純、これを討伐。劉楊は、景帝の七代の孫、劉襄は実弟。劉楊、劉譲共に衆、尽く誅殺される。5月 劉楊の子、劉徳を真定王となす。


劉復

略記

建武30年 興の子、劉復を臨邑候と為す。北海靖王興の子。北海靖王は、劉縯の次男。劉縯は、光武帝の兄。学を好み、文章を良くする。永平中(58〜75)、学術討論が行われる度に劉復に主宰させた班固、賈逵と共に漢史を述べ、皆これに師事した。

この場合、劉復の方が有力候補であろう。反旗をした者より、光武帝の兄、その子孫の方が血統がいいだろうし。

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