劉備の先祖(臨邑候・劉復)

「典略」にいう。元来、劉備の先祖は臨邑(りんゆう)候のわかれである。という記録である。


この「典略」とは、「典略八十九巻、魚豢(ぎょかん)選」と隋志にあり、魏略の典略の一部らしい。魏の史書で紀伝体。内容が雑多とか、筆力があるとの評価があるそうだ。


臨邑候は、後漢書を調べてみると候補は2人いる。そのひとりである劉復について述べる。


劉復は、光武帝・劉秀の兄である劉縯の孫。父は興である。劉縯は、文武に優れ、皆の支持を集めたが、向こう見ずな所があり、そのせいで殺されてしまう。


建武30年(54)、劉復、臨邑候となったという。劉復は、学を好み、永平(58〜79)、学術討論が行われる席にいつも主宰させたという。光武帝〜明帝〜章帝の間と考えれる。


班固(漢書の著者)と賈逵と共に漢王朝の歴史を述べたという。漢書に影響があったのであろうかどうかは分からない。また傅毅等、皆が師事したと伝わる。


厳威卿とは、常に政事を議論したという。明帝の頃、神秘的な雀があり、劉復に問うも「賈逵なら博識ですから、分かるでしょう」と推挙。見事、賈逵は、それ期待に答えている。

劉復は漢徳頌を著し、王扶を名臣と称えたという。

尚、生没年は不詳である。

  • 劉備が称した臨邑候は、この人物であろう。光武帝の兄の孫でもあるし、血統的に、後漢に繋がっている。では、なぜ臨邑候の子孫を称したのかは、これは別の説があるので、その時に述べたい。
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