献穆曹皇后・曹節


正史・三国志「三少帝紀 陳留王紀」に

「景元元年(260)6月7日に、漢の献帝の夫人、節が亡くなった」という記事がある。

節は、曹節の事で、曹操の娘。(母は不明)。正史・三国志「武帝紀」によると

「建安18年(213)7月、天子(恵帝)は公(曹操)の娘を3人迎え入れて貴人とした。」

3人の娘は、憲、節、華とあり、建安19年(214)11月に伏皇后が弑逆された後、同書には「建安20年(215)正月、天子は公の娘の真ん中の娘を立てて皇后した。」

とあり、曹節が皇后になった記事がみえる。

その後、後漢書によると、
魏が禅譲を受ける時に、使者を遣わして玉璽を求めた時、曹節は怒って与えず、交渉は何度も繰り返しされ、自ら使者を呼び入れて激しく責め立てたという。


最後は受け入れるものも、玉璽を、格子模様の欄干に向けて投げつけ

その時、玉璽にむけて

「天は璽(なんじ)に祚(さいわい)せず」

(意訳)「天は、汝に幸福を与えてはくれないのか」と言い、

溢れるように涙を流し激しく泣いたというその姿に、左右の者たちは、仰ぎ見ることは出来なかったと伝わる。

曹節が亡くなった景元元年(260)は、(因みに、献帝は、青龍2年(234)に亡くなっている)高貴郷公、魏の第四代皇帝であった曹髦が、司馬氏から実権を取り戻そうと自ら親衛隊と率いて司馬昭を討とうとするも、成済に刺殺される年でもあった。

また、第三代皇帝であった斉王・曹芳も、嘉平6年(254)に廃立されている。兄である曹丕の皇帝即位から、甥の皇位継承、その後、宗室である曹氏が衰退していく姿をみて、彼女は何を思っていたのであろうか。


さて、この玉璽を投げつける話であるが、実は、元話みたいのがある。

時代を遡る事。前漢が王莽によって簒奪される時時の皇后であった考元皇后(王莽の伯母)が、王莽に玉璽を求められた時

「汝ともがらは、漢家のおかげを持って代々富貴であったのに、その恩に報いないのみか都合のよい機会に乗じて国家を奪い取るろうとして、恩義などさらに顧みない。〜(略)〜私は漢家の老寡婦で、朝夕をはかりがたい寿命ゆえ、いっそうのこと、この璽とともに葬られたいと思うが、それさえ出来ない」

と、涙を流しながら言い、周囲の者ももらい泣きをした。

しかし、最後は王莽が脅迫する事を恐れ、やむなく玉璽を取り出して地面に投げつけたて

「私は年老いてもはや死んだも同然の身だが、汝ら兄弟の如きはすぐ族滅されるだろう」

と言ったと伝わる。

基本構図は同じで、最初は拒否し、最後はやむなく玉璽を投げつけるとうシーンとなっている。似た話があると、微妙に後漢書の方が怪しげに思えちゃうというのが正直な所である。


※献穆(けいぼく)皇后は、諡(おくりな)追号である。

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