敬粛王彭祖
敬粛王彭祖
父:景帝
母:賈夫人
生没年:不明〜征和元年(BC92)
因みに、景帝の子は14人いるのだが、多くがブラックな性格をしている。敬粛王彭祖は、これでもマシな方である。
超王は、宰相等が赴任にくると、身を低くして対応し、色々疑わしい事件を捏造し、彼らを混乱させ、宰相等が失言等をして朝廷の忌諱に触れる事があれば、書簡にしたためておいた。
これは、相手の弱みを握る為であった。宰相等が、超王の罪を正そうとすると、その書簡をもって脅迫、聴かなければ、奉って告訴。あるいは奸吏を貪ったとい言って罪に陥れたという。
これを繰り返すことで、超王が立って60年余り宰相、宰相等(二千石)で2年在任できた者はいなかったという。超王は権をほしいままにした。
役人を各県にやり、商人から仲介料を取り、利益を独占。その収入は国の租税より多かったという。まさに悪代官みたいな事をしているのであった。その金は、湯水のように妾や諸子が使ったという。まさに悪人の鏡である(褒めてはいないが)。
子の丹が、妹や同母の姉と姦通(子もやりたい放題である)。江充が丹の淫乱を告発すると、さすがの武帝も激怒し、丹を捕縛。最初は死刑にするつもりだったが、超王が丹の無実を訴え(罪を認めないという基本コースである)、また匈奴を討伐願い出る。
何故か、これで武帝は死罪を免じ、丹は後に釈放される。しかし。匈奴討伐は許さなかった。丹を太子に立てることを求めたが、これは許されなかった。征和元年に薨ずる。武始候昌が継ぐ。
景帝の子。14人いるのだが、ブラック性格が多く。彭祖もその独りである。
中山靖王勝に「兄は王であるのに、もっぱら役人に代わって仕事をしている。王者たるものは、日々音楽を聴き歌舞華麗を事としておるべきである」と言われているが、実際は法を使って相手を陥れ、暴利を貪っていた時代劇に出てくる悪代官典型である。
先の副将軍もいなかったため(いるわけない)、退治もされずに60年以上も王として君臨していた。領民は溜まったものじゃなかったであろう。
しかし、諡の敬粛って、粛敬を反対にしてるから皮肉だよね。