張角 第1回
後漢書より「中平元年(184)春2月、鉅鹿(きょろく)の人張角自ら黄天と称して、其の部帥(ぶすい)は三十六万有って、皆な黄巾を付けて、同日に叛乱す。」
これが黄巾の乱の勃発の記載である。
これが黄巾の乱の勃発の記載である。
※注によると、時に中常侍:呂彊(ろきょう)が帝に言いて曰く「党錮久しく積(つ)み、もし黄巾と合謀すれば、これを悔(く)ゆるとも救い無しと。」帝懼(おそ)れ、皆な之を赦すとあり。このことから、過去に党錮の禁になった人物であった事がわかります。
当時の清流人士は、士大夫とも言われ、土地それぞれの豪族の子弟でもあり、ある程度は力を持った人物達であったのです。張角は、鉅鹿にいた豪族の子弟だったと考えられます。
于吉は、朝廷に献上するも、顧みられなかったと言われています。張角は、官僚の頃に、この書物を見て、自らの力としたのではないですしょうか。
これが、後の黄巾の乱へと流れていく元となっていったと想像します。